枝の間から見える空を見上げて、少女は微笑んだ。
開き始めた薄紅色の花弁が薄群青に映える。
先月まではマフラーとコートがなしに外出するなど考えられなかったのに、今ではすっかり穏やかな春の気候だ。
時間が進むのは早い。止まることを願えば願うほど早く感じるのはなぜなのか。
春休みに入る、ということでどこか浮き足立った生徒たちの声が、の耳に届いた。
校門へと続く道から外れているということで、この場所は逆に静まり返っている。
春には見事な桜を咲かせる桜の木。
在学中は殆ど来ることはなかったが、はこの場所が好きだった。
薄紅色のそれが散ると今度は毛虫の巣窟になり、秋には枯葉で生徒達を手こずらせるのだが、ここは不思議と落ち着くことが出来た。
たまに金太郎がここに登って遊んでいると、必ずそれを探しに来る少年の姿を思い出しては笑みを深めた。
ふいに歌声が聞こえてきた気がして彼女は顔を上げたが、すぐにそれが空耳であることに気づいた。
耳の奥でずっと、ずっと響いている四天宝寺の校歌。
変な校歌だったけれど、もう聞くことがないのだと思うとどこか淋しい。
校長の話も、保護者や来賓がいるからといって真面目になるのではなく、むしろいつも以上に張り切って笑いに突っ走っていた気がする。
そのおかげで悲しさとは別の意味で涙を流しそうになったのだが。
最後の最後までとんでもない学校だったが、これが我が母校なのだと思うとどこか誇らしい。
中学進学時に関東から引っ越してきた自分に誰もが優しく、たった3年という短い時間だったが、の心にはしっかりと愛校心というものが根付いていた。
卒業、か。
制服のポケットに突っこんでいた手を出して触れた幹は、ざらりとしていたが、力強い生命力を感じさせた。
四天宝寺は高等部が設置されている学校なので、ほぼ全員が内部進学を選択する。
だから、卒業式と銘打たれていても所詮は中学過程の終了という認識しかなく、ハンカチで目元を拭いながら嘆き悲しんでいる人間など1人もいない。
教師たちもそれほど重要視していないのか、卒業証書だって各クラスの委員長が代表して受け取るだけだ。
適当に校歌を斉唱してぼんやりと答辞を聞き、中にはのん気に居眠りしているものまでいる。
啜り泣きではなくイビキが聞こえてきた時は、さすがのも驚いた。
皆、4月になれば再び同じ教室、同じ空間で輝かしい青春を共有できることを知っているのだ。
むしろ、淋しそうなのは卒業生よりも残されていく在校生のように見えた。
数年後には同じ学校に進学するのは知っていても、先輩と1、2年離れなければならないのは堪えるらしい。
何だかんだいって1番さびしそうなのは財前で、彼の横顔は中々見ることが出来ない憂いを帯びた表情をしていた。
金ちゃんは・・・、と鮮やかな髪色を持つゴンタクレの存在を思い出したは、思わず頬を緩ませた。
「ワイ、と離れるん嫌やー!」
東京に戻ることを告げた瞬間、少年は骨が軋まんばかりの力で彼女の腰にしがみ付いた。
身体は小さいのに、よりも遙かに力強い金太郎の腕力に、少女は一瞬息が詰まった。
金ちゃん、と彼の頭を撫でると、その力は益々強まり、金太郎は潤んだ瞳で彼女を見上げた。
その姿はまるで捨てられそうな子犬が「捨てないでくれ」と哀願するようで、の心がちくりと痛む。
だが、次の言葉にはぎょっとした。
「白石ん家に住んだらええやん!」
思わず名前を挙げられた少年を見つめると、彼は「しゃーないなぁ」というような困った笑顔を浮かべていた。
別に付き合っているわけでもなく、ただの『部長とマネージャー』という関係なのに、こんな所で白石の名前を出されたら困るわけで。
周りにいた部員達が「部長とって付き合っとるんか?」とざわつき始めた。
ほら、こういう誤解を招く。
だが、金太郎の発言はあながち間違ってはいない。
は、白石が好きだった。
いつの間にか咲いていた恋心を自覚した時は、なんだか気恥ずかしくて少しの間彼の顔を見ることが出来なかった。
しかし、その想いを誰かに打ち明けたことなんてない。
唯一気づいているといえば、我が部で誰よりも『乙女心』を理解している金色小春だけだ。
部活の最中にこっそりと、「がんばるんよ!」と応援された時は、さすが『乙女』、と不覚にも感動してしまった。
ちらりと視界に入った彼は、妙に微笑ましくこちらを見ている。
誰にも告げたことがないはずのの恋心を、まさかこんなに幼い少年にまで悟られているとは。
の背中に冷や汗が流れたが、そこは天真爛漫な金太郎だ。
彼女の心配はただの杞憂に終わった。
「ワイん家でも、ケンヤん家でもええで?!なんならオサムちゃん家でもええやん!」
さすがにオサムちゃんの家はまずいだろ、と思い、は苦い笑みを浮かべた。
少し古びたアパートを根城にする無精ひげを生やした青年は、「ほんなら、ウチに住んだらええで」と本当に言い出しそうだ。
父の転勤、というありきたりの理由で慣れ親しんだ人々と別れなければならないなんて。
ためしに「こっちに残りたい」と頼んでみたものの、「まだ高校生だから」という理由で一蹴されてしまった。
将来なりたいものなんてなかったけれど、少なくとも高校を卒業する3年後までは彼らと一緒だと思っていたの心は揺れた。
これほどまでに自分が子供であるということを呪ったことはなかった。
だが、駄々をこねても罷り通らないこともあるということを理解できない年でもない。
時間は要したが、部員達に大阪の地から去ることを告げる頃には大分吹っ切れていた・・・はずなのだが。
「なぁ、ー!」と淋しそうにせがむ金太郎を見て、は自分の方が泣きたくなった。
そんな彼女を見かねたのか、白石は前に進み出て金太郎の首根っこを掴んだ。
「金ちゃん、無理言うたらあかんよ」
「なんやねん、白石ぃ!白石やってちゃんが―――」
「・・・毒手やで」
そう言うと、今まで大騒ぎしていたゴンタクレは、電池が切れたオモチャのように大人しくなってしまった。
思い返すと、楽しかった想い出ばかりだ。
ホースでバカみたいに水を掛け合って、全身ビショビショになった日。
コートの横でたこ焼き祭りを開催して、こっぴどく怒られた日。
何人かで部活を抜け出して、アイスを買いに行った日。
練習に対する意見が食い違い、白石と大喧嘩した日もあった。
悲しいことも辛いこともあったけれど、どれも炭酸ソーダみたいにキラキラと輝いている。
卒業式で我慢していた涙が溢れ出しそうになり、は慌てて深呼吸した。
ツンとした鼻から、清涼な空気が流れ込んでくる。それは少し冷たいけれど、どこか春の匂いがした。
「なんやねん、こんな所におったんか」
降り注いだ声に、はゆっくりと振り返った。
相変わらず男前な我が部長が卒業証書の入った紺色の丸筒を片手に立っている出で立ちは、逆立ちして見ても絵になりそうだ。
ドラマや少女マンガでは第2ボタンがどうとかこうとか言っているが、彼の制服のボタンはどれも欠けることなく整列している。
彼がモテないというのではなく、皆「高校も一緒だからええか」という位にしか思っていないのだろうか。
そう思うと、少し悔しい気がした。
自分、この場所好きやなぁ。
白石蔵ノ介は、そう言っての隣に並び、彼女と同じように空を見上げた。
彼はとっくにの少し赤くなった瞳に気づいているくせに、何も尋ねてこなかった。
触れてしまうと彼女の涙腺を刺激してしまうことを分かっているのだろう。
「この後、お好み焼きパーティーだっけ?」
「せやな。金ちゃん、めっちゃ張り切ってんで」
あいつ、に懐いとったから。
そう言う白石の横顔を見て、は「白石にも懐いてたじゃん」と言いたくなった。
なんや、オトンとオカンみたいやなぁ。
白石と2人で金太郎を探していると、よく部員達にからかわれたものだ。
「・・・写真、撮らんでええんか?」
「もうデジカメのメモリーがはち切れそうなんだもん」
「・・・引越しの準備、もう終わったん?」
「うん」
数日後に控えた引越しの準備は万端だ。
部屋はガムテープで封をされたダンボールが溢れていたが、必要最低限の荷物しか置いていない棚やクローゼットはガランとしていた。
現実は、やっぱりシビアだ。
どれほど願っても、どうにもならないことだってある。
自分はまだ子供で、親の手を借りて生きるしかない。子供だけれど、それが分からない子供でもなかった。
自分自身で稼いだお金で学校に通う、というのは非現実的だということも理解していた。
例えそれが可能になったとしても生活時間の殆どがバイトに費やされ、白石の隣に立って部活をすることはまず出来ないだろう。
どうしようもないのだ。
けれど、頭では分かったつもりでも別れというのは悲しいし、今でも胸の中では「もしかしたら」と神様からの気まぐれなプレゼントを期待している自分がいる。
彼女の心を見透かしたように、白石は包帯を巻いた手をの頭の上に載せた。
こうされる時が、1番幸せだ。
「絶対、遊びに来るからね」
「そこは、白石に会いに来るからね、やろ」
「はい、はい。蔵サマに会いに来ますよー」
「・・・手紙、書くな」
「・・・メールじゃなくて?」
が照れ隠しのように笑うと、白石は「けど」、と少し間をおいて言葉を紡いだ。
「手紙の方が気持ち伝わるやん」
確かに手紙の方が貰うと嬉しい。
ポストを開ける時のあのドキドキ感に、指に触れる紙の感触。
並んでいる字は、その人がそれをどんな顔、どんな感情で書いていたのかという背景を思い起こさせる。
最後の方がふにゃっと歪んでしまっている時は、疲れてるんだろうな、とか、眠たいんだろうなとか。
今でこそメールに馴れてしまっているが、手紙の方がずっと、ずっと、味がある気がした。
「白石って、結構アナログだよね」
そう言って、は息を吸い込んだ。
「でも・・・好き、だよ」
それが何の意味を含んでいるかは、言わない。
「白石」
が名を呼ぶと、彼はひどくやさしい顔で「なんや?」と首をかしげた。
それを見ながら、少女はスッと右手を差し出した。
「ありがとう、元気でね」
精一杯の微笑みをのせ、彼の幸せを願って。
出会いがあるから別れがあるのだ。
そんなことを言い出したのは、一体どこの誰なのだろう。
けれど、最後に覚えていて貰うならば、笑顔がよかった。
白石は微笑むと、包帯をしていない右手を差し出し、ほんのりとした温もりがの右手を包み込んだ。
3年間も一緒にいたのに、こんな風に彼と手を触れ合わせるのは初めてだ。
「俺な、がマネージャーで良かったわ」
「なによ、急に」
「・・・ありがとうな、3年間」
耳をくすぐった言葉に、堪えていた涙が一気に溢れ出した。
揺れる視界の向こうで、彼の「やっぱり泣いた」と言いたげな、どこか楽しそうな顔が目に入って、は「こいつ、絶対
伸ばされた少年の左手が、の頭を慰めるように撫でる。
震える唇で「白石のバカ」というと、彼は苦い笑みを浮かべながら、「関西人にバカは禁句やで」と呟いた。
「あとな、こんな時に言うんもあれやけど・・・」
白石はそう言いながら、の耳元に唇を寄せた。
「俺な、お前のこと好きやねん」
それは、ストン、と胸の中に素直に落ちてきた。
離れた白石の顔は、いつものように優しくてかっこよくて、でもどこか悪戯っ子のような笑顔を浮かべていた。
「・・・なんで今、言うのよ」
「だって、やって俺のこと好きやろ?このまま離れるん嫌やん」
「・・・自分で言う?」
驚いて涙がひっこんでしまったがクスクスと笑うと、白石は頭に置いていた手を少女の肩に下ろし、2人は握手をしたまま、唇を寄せた。
触れるだけのキスは、涙の味がした。
名残惜しそうに遠のいた彼の頬は照れているらしく薄っすらと朱がさしていて、彼を年相応の少年にみせた。
こんな貌はそうそう拝めるもんじゃない。
いつも大人っぽいけれど、やっぱり中学生なんだ、なんては今更実感してしまった。
「・・・しばらくは遠距離、やな」
「・・・うん」
結ばれていた右手は、ゆっくりと離れ、2人は指を絡ませ合うように手を繋いだ。
絶対に会いに行くな。
絶対に会いに来るからね。
隣り合わせの少年少女は、魔法の呪文のように何度も繰り返す。
このさよならは、
再会を願う約束、なのだ。
互いの幸せを祈りながら、白石蔵ノ介とはゆっくりと一歩踏み出した。
いつも、いつでも、願ってる